Adidas(アディダス)の歴史とは?ファッションブランドAdidasの歴史を各年代別に解説!

1920年代/ベンチャー企業としてのAdidas創業時

ルドルフ・ダスラー(兄)とアドルフ・ダスラー(弟)兄弟は、ヘルツォーゲンアウラハで靴職人として働く父クリストフと小さな洗濯屋を営む母パウリーナの元に生まれる。1924年アドルフ・ダスラー(弟)がアディダスの前身となる「ダスラー兄弟製靴工場」を設立し同年にルドルフ・ダスラー(兄)はアドルフ・ダスラー(弟)が設立した製靴工場に参加するためヘルツォーゲンアウラハに帰る。ルドルフは販売担当、アドルフは生産担当をし、兄弟は母親が使っていた洗濯室でこのベンチャーを開始した。当時、町の電力供給は不安定なもので、兄弟はしばしば据え付け自転車のペダルを漕いで機材を動かしていた。

1930年代/企業の飛躍となるベルリンオリンピック

30年代ではまだ他の業界でもこの様な営業活動は少なかったが、1936年アディはスーツケース一杯のスパイクを携えて夏季オリンピックが開催されるベルリンに向かった。目的は短距離走者ジェシー・オーエンスに自社のスパイクを使用してもらう為だった。見事オーウェンスを口説き落としオーエンスはこの大会で4つの金メダルを獲得する事になる。このプロモーション効果は絶大で事業は波に乗り、ダスラー兄弟は第二次世界大戦前に年間20万足の靴を販売していた。

1940年代/兄弟の溝とAdidas設立

第二次世界大戦中に生まれた兄弟の溝は大きく、1948年4月に兄弟は袂を分かつ事になる。1948年(ドイツ)ルドルフ・ダスラーが今日でも有名なPUMA(プーマ)をヘルツォーゲンアウラハに設立。正式名称はプーマ・シューファブリーク・ルドルフ・ダスラー (Puma Schuhfabrik Rudolf Dassler) 。一方でアドルフは社名に自身の愛称(Adi)と苗字の最初の3文字(Das)を合わせてアディダスという名前を付けた。これがAdidasの本当の始まりとなる。

1950年代/Adidasの躍進

1952年、西ドイツの選手全員がヘルシンキオリンピックでアディダスのシューズを履いて以来、オリンピックで圧倒的な支持と人気を集めることになりました。

1960年代/現在まで引き継がれる人気モデルの誕生

1965年 – 後に「スタンスミス」となるテニスシューズ「ハイレット」を発表。また同年にはスーパースターの前身となるスーパーグリップが発売。このシューズは当初、プロのバスケットボール選手向けにデザインされ、滑らかなスエードを採用することで、キャンバス地の競合製品に比べて履き心地と耐久性を高めていた。1960年代後半、adidasは、シューズの先端を保護するラバー製トゥキャップを実験的に作り始めた。テニスモデルにはラバー製トゥキャップが採用されていたが、特徴的なリブを持つアイコニックなシェルトゥを発表したのはadidasフランスのチームであり、スーパースターの代名詞となった。1969年に作られたプロトタイプがadidasのアーカイブに保存されており、このシューズの歴史的意義を確固たるものにしている。

1970年代

1970年 – オールレザーのバスケットシューズ、「スーパースター」発表。1970年以降、アドルフの息子であるホルスト・ダスラーが実権を握り始める。ホルストはスポーツ広告代理店インターナショナル・スポーツ・アンド・レジャー(ISL)を電通と共同で設立し、フアン・アントニオ・サマランチ(第7代IOC会長)やジョアン・アヴェランジェ(第7代FIFA会長)、プリモ・ネビオロ(第4代IAAF会長)らといったスポーツ界の大物達と太い人脈を持ったことなどから、後の近代オリンピックやFIFAワールドカップといった大規模なスポーツイベントの商業化に大きな影響を与えたとされる。また、これによりスポーツ界全般においても大きな力を持つようになった。この時期、アディダスは売上高で世界一のスポーツ用品メーカーであった。

1980年代/AdidasとRUN DMC

1980年代後半、アイコニックなシルエットはアスレチックの起源を超え、文化的・デザイン的現象となった。その影響は非常に大きく、1986年にはヒップホップグループのRun-D.M.C.が、その代表曲 「My adidas」の中で、adidasと彼らの愛用するスーパースターに敬意を表した。このコラボレーションは極めて重要な瞬間であり、スポーツ界だけでなく、音楽、アート、ファッションの世界など、より幅広いコミュニティでこのシューズの影響力を確固たるものにした。スーパースターは何年にもわたり、有名ブランドやアーティストとのアイコニックなコラボレーションで注目されるシルエットとなり、スタイルアイコンとしての地位をさらに固め、シューズの多用途性とグローバルな魅力を示してきた。しかし1987年4月ホルスト・ダスラー没後の経営権争いにより方向性を失い低迷し始める。

1990年代/低迷からの復活

1990年にフランス人実業家のベルナール・タピ(Bernard Tapie)がアディダス(adidas)の株式の半分以上を取得し、事実上の経営者となります。 これによって、完全にダスラー家はアディダスから撤退しました。この頃、アディダスは売上が低迷しナイキ、リーボックに続く業界第3位にまで転落してしまいます。その3年後、フランス人実業家のロベール・ルイ・ドレフュス(Robert Louis-Dreyfus)が経営権を取得し、低迷していたブランドの再建を本格的に始めました。ロベールのもとで、アディダスは見事に黒字化し、復活を果たします。 その後、リーボックも傘下に入り、事業は次々と拡大していきました。1995年11月、アディダスがドイツフランクフルト証券取引所に上場します。 1997年、ウインタースポーツ用品のメーカーとして知られるサロモン(Salomon)の買収をします。これにより世界第2位のメーカー、アディダス−サロモングループとなりました。アディダス・ジャパンを設立、本格的に日本へ進出します。

2000年代から現在/世界ブランドへ

2003年、アディダス・スポーツ・パフォーマンスセンターの世界展開をスタートさせ、山本耀司とコラボレートしたブランド、Y-3を発表しました。 また、リーボック(Reebok)株を取得し、リーボックをグループに加えました。そして売上は約100億ドルを計上します。 同年10月には、フィンランドのスポーツメーカーであるアメアスポーツコーポレーションにサロモン部門を売却し、2006年にはポルシェデザインとパートナー提携をして、スポーツコレクションポルシェ デザイン スポーツ(PORSCHE DESIGN SPORT)を発表しました。 2008年、アディダスジャパン(株)と(株)リーボックジャパンが合併します。 また、ディーゼルとコラボレーションし、ディーゼルのクリエイティブチームとアディダスの新しい組織のチームがデザインを手掛けた、プレミアム・ジーンズのコレクションアディダス オリジナルス デニム バイ ディーゼル(Adidas Originals Denim by Diesel)というブランドを発表しました。 2009年にはアディダス シルバー(adidas SLVR)を発表します。日本でもスニーカーのカスタマイズシステムとしてマイ・オリジナルス(mi Originals)をスタートしました。 2010 年のワールドカップ南アフリカ大会では、出場32カ国中12カ国ものチームがアディダスのユニホームを着用し、多くのサッカーファンにも選手を通じてアディダスの魅力を伝えました。 また、スポーツ選手をサポートする吸水速乾性に優れた新技術ファブリックエックスを開発し、どんな状況下でもベストパフォーマンスできるように選手たちを支えました。 2017年、アディダスから新しいプロジェクト、トーキョー エディション(TOKYO EDITION)シリーズの始動が発表され、今なお進化し続けています。

出典:https://sneakerhack.com

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